由緒と沿革

 天満別院は真宗大谷派に属し、慶長6年(1601)11月本願寺第12世教如上人の開創の寺院であります。

 別院のはじまりは、教如上人に従って、信任の厚かった佛照寺祐恵の尽力によるところが多大でありましたので、建立の初めより祐恵が留守居役(住職)となり、彼の子孫(11代まで)が受け継いで、その整備と発展に尽力されました。

 天満別院を近年まで親しく“佛照寺さん”とよんだのも、このような歴史的事実があるからであります。

 もともと本願寺と大阪の関係は直接的には本願寺第8世蓮如上人からであります。上人の建立された石山坊舎(大阪城付近)は、いわゆる「大阪」の発足点でありましたが、それはやがて「石山本願寺」となりました。有名な石山合戦で本願寺門徒の信仰の強力さを内外に示したので、儒学者の頼山陽(らいさんよう)は「南無六字城」と讃えたのでありました。

 10年も続いた石山合戦が終わり、本願寺は紀州鷺ノ森、ついで泉州貝塚へ、天正13年(1585)に大阪天満川崎へ移り、天正19年(1591)京都堀川へ移って行きましたが、天満別院はその川崎本願寺の伝統を受け継いだのであります。

 教如上人は文禄5年(1596)大坂渡辺の地に大谷本願寺を建立し、慶長3年(1598)大谷本願寺難波の地に移り、慶長6年(1601)天満御坊を建立しました。大谷本願寺難波の地に移って僅か3年後にこの地へと戻って新たに坊舎を建立したのは、天満別院誌では旧地を守るための坊舎建立ではないかと記されています。当時は造幣局付近、祐泉寺寺地をも含む辺りであったとも記されています。

 その後、慶長7年(1602)徳川家康より烏丸七条に寺地を寄進され東本願寺を建立されました。

 慶長13年(1608)現在の地へと天満別院は移転しています。

戦時中に供出した梵鐘

 

 江戸時代に入り、大阪が三郷(南組、北組、天満組)に行政区画されると、天満組の宗旨人別帳(人口調査)の巻納め寺院として、社会的に寄与すると共に、北区の精神文化の殿堂としての役割を果たしてきました。

 

 明治43年(1910)親鸞聖人650回御遠忌の時、第22世現如上人の御染筆による『六字城』の額が、本堂正面に揚げられましたが、まさしく別院が石山本願寺以来の伝統であることを示している証拠です。

 

戦火による焼失以前の本堂内陣

 

 

 650回御遠忌の前年、明治42年(1909)には天満焼けと言わわれる大火事が大阪北部を襲いました。被害状況は、焼失戸数11,365戸、罹災地面積1.2平方キロという規模のものであり、天満別院は出火間近でありながら焼失はまぬがれ別院は直ちに救護所として本堂を解放しました。

 

昭和20年の戦火による焼失以前の本堂

 

 しかし誠に残念にも、昭和20年(1945)6月の空襲にあって灰燼に帰しましたが、戦後いち早く、昭和25年(1950)に仮本堂を建立、やがて、昭和34年(1968)に大阪読売テレビの発足にあたり、テレビ局に境内を分割貸与し、翌年本堂の復興が出来ました。

 

昭和再建時の本堂全景
昭和再建時の本堂内陣

 

 

 

 

 

 

 

昭和本堂再建時の庭儀

 

 以来40年、本堂のみの状態で今日に及びましたが、蓮如上人500回御遠忌を迎えるにあたり、別院の機能を充実いたすべく、有縁の方々のご協力を得て、本堂及び諸施設の整備に着手、平成12年(2000)5月に今の本堂・庫裏の再建を見るに至りました。